院長のひとりごとコーナーに「安保法案ですが」を掲載しました。
安倍晋三首相は「戦争をするためではない。戦争を仕掛けられないための意思を示すことで抑止するのだ。」と述べています。そのこと自体にまるで反対の意見を持つ国民など、多くはないのではないでしょうか。問題は、本当にその目的のためにふさわしい、理にかなった安保法制なのかどうかという点です。
結論から言うと「それは違うでしょ?」と私は思います。安倍総理の進めようとしている新ルールを見ていると、時代劇のちゃんばらシーンを思い出します。
暴れん坊将軍では、腕の立つゴロツキ(にしちゃあ、誰が見ても二枚目過ぎますが)で通っていた男が実は将軍様だと判明したところで、悪役側は「もはやこれまで。ものどもこやつは将軍様を騙る不届き者だ。斬れ斬れ~!」と叫んでテーマ曲がスタートし、お約束の見せ場が始まります。しかし、何人、何十人の悪役側家来が控えていても、暴れん坊将軍様には正面から一人ずつしかかかってゆきません。一人ずつ、将軍様に切り殺されるのを見てから次の家来がかかってゆく。決して、後ろ側から切りつけたりしませんし、5人まとまって襲い掛かることもしません。これはもちろんスペクタクルとしての演出には相違ありませんが、実はそれだけでもない。日本人の美学的に「正々堂々」とか「卑怯な手では勝った事にならない」といったコンテクストがあるから、青臭い演出も万人に受け入れられるのではないでしょうか。
安倍晋三総裁の目指すところはといえば、この時代劇のお約束を前提としない限り、かえって日本本土の防衛を危うくする可能性が高いでしょう。日米安全保障条約に基づいて自衛隊を海外に派遣して、アメリカの侵略戦争の手伝いをしている間、平素にも増して兵力も重火器も心許なくなった本土や離島に、例えば中国共産党は何もして来ないものなのでしょうか。相手がポツンと一人でいたら、そこに正義や大儀があろうがなかろうが、あらん限りの物量を投入して、騙まし討ちにしてでもこてんぱんにやっつけるのが、アメリカをはじめとする白人の価値観であり、いつもその白人と価値を共有してきた中国の「正義」です。彼らに日本流の時代劇方式を納得させることは不可能であり、現行憲法の条文だけをただ堅持して(解釈改憲で内容は無いも同然)さえいれば、向こうは力に物を言わせてかかっては来ない、卑怯な騙まし討ちもして来ない・・・そんなわけはないでしょうと思うのです。
以上が、安倍晋三総裁は言行が一致しておらず、今後五十年の日本国民の命運を左右する重要事案について、白紙委任するに足る器量など到底備えていないと考えられる理由のひとつです。そして、こんな泥縄でことが進んでしまう最大の原因と責任は、比較検討の結果、どうやら「団塊ジュニア世代」においてもっとも罪深いらしいとの説が囁かれるようになって来ました。つまり、今40代の現役男女(特に子供がいるならなお深刻)が、今日まで重大な矛盾の棚上げを続けてきた事実なしに、安倍晋三ファミリーの「男のロマン劇場」暴走はありえなかったのだというのです。
「それって、全部おれのことじゃんね!?」
自民公明の強行採決の日、さすがにやばいかなと青ざめたという話です。