ポール・モーリア大先生のこと

Image0004ユニバーサルミュージックから、マニアが泣いて喜ぶ超絶系の企画モノが飛び出した。

「ポール・モーリアのすべて〈70周年記念コレクション〉UICY-75626」 内容詳細はこちら

いまや名前だけ言っても「知らない」人のほうが多くなってしまった御仁に、私はなんと小学校五年生の大昔から入れ込み続けている。小学校に上がったころ、周りの子供がピンクレディーで騒いでいるときに渡辺真知子や八神純子のレコードをねだったマセガキは、その後案の定、世間の流行り廃りとはどんどん乖離し、小学五年の秋にとうとうこの御仁の歌無し演奏モノに捉まってしまった。以来、同年代の人と音楽の趣味が合うことは決して無い運命となり、テレビの歌謡番組が全盛を極めていた当時、私は翌日の話題についてゆけない「浮いた」子供として生きるしかないわけだったが、それがはたして音楽の趣味が風変わりだったからだけなのかという点については、いま現在私の周囲にいる人の意見は一様に否定的である(子供のころから変な人だっただけでしょ!と言いたい人が多い模様)。

1970年代いっぱい、文字通り飛ぶ鳥を落とす勢いだったポール・モーリアも、私が出会ったころにはだいぶ落ち着いていて、毎年の来日公演はチケットの入手がまだまだ難しかったものの、年に一枚くらい製作されていた彼の新譜がヒットチャートをにぎわすような状況では既になくなっていた。しかも、新譜のLPは高価で、当時の私の小遣いを全部貯めても年に2~3枚買うのがやっと。そこで目を付けたのが中古レコード。私がめぐり合う以前にポール・モーリアはおびただしい数のレコードを日本で売りさばいていた関係で、待てば状態のいい中古盤を掘り出せるチャンスがかなり残っていた。あの頃、年に二回くらい東京の大手中古業者が大量のお宝を抱えて上杉の勝山企業のホールにやってくるたびに、泉の山奥から自転車で馳せ参じ、会場に並ぶ途方も無い展示在庫盤の中から目にも留まらぬ早業でポール・モーリアのオリジナル盤を抽出し、吟味に吟味を重ね、そして最後は握り締めた軍資金の制約に阻まれ泣く泣く何枚かを手放して会計のレジに並ぶというのが、小生の青春だった次第。カネに糸目を付けず(という風に、子供の目には映った)見つけ出したお宝レコードをごっそり全部お買い上げする、知らないおじさんのライバルたちを横目に、歯軋りしながら「俺もいつかは5枚10枚とまとめて中古レコードが買えるような男になってやる!」と思ったもの。しかし、結果的には一万円を超える小遣いを突っ込めるだけの甲斐性が身につくより先に、レコードという記録媒体自体がこの世から消えてなくなってしまい、この若き日の野望はついに実現することなく人生を終えるほか無い宿命を背負っていることなど、もちろん当時は知る由もない。

それよりなにより、今なお思い出されるのはくだんの勝山ホールから自転車で帰る道のりの辛かったこと! 往路は基本的に下りだし、まだ見ぬお宝中古盤に胸躍らせてひたすら走ればよいだけ。しかし、復路はその条件全てが裏返し。せっかく見つけ出しながらも、予算不足で陳列棚に戻さざるを得なかったレコードたちの幻影が脳裏に蘇るのを振り払いつつ、他方、厳選の末無事買い付けて今持ち帰りつつあるレコードを落っことして割った日にはもう立ち直れないから、路面のでこぼこを避けて緊張して走らなけりゃならないし、緩急はあっても自宅の前まで要は全部上り坂だしで、とにかく死ぬまで忘れえぬ強烈な思い出なのである。

さはさりながら、あれから何十年も経ってみると、少ない小遣いをコツコツと貯めては年に1~2度まとめてパッと使う一点豪華主義は、今日に至るまで私の金銭に対する哲学(吝嗇さ?)を堅固に規定しているように見える。いつの時点でも小遣いは学級の最下位クラスしか与えなかった私の両親の政策が、その当否はまったく別として、強い教育的影響を息子に与えたことだけは確かであろう。四十を過ぎた今も、私は総じて一点豪華主義のままである。

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(写真右のおじさんは、大御所シャルル・アズナヴールでは?モーリアが亡くなった年の初夏に「最後の」と銘打って来日したアズナヴールの東京国際フォーラムの楽屋で女房共々彼と並んで撮らせてもらった写真は我が家の家宝。アズナヴールは元気だろうか?)

話を「70周年記念コレクション」に戻す。私のモーリア教の病膏肓ぶりは上述の通りだが、世の中、上には上が沢山いるもので、この企画を監修したのが仙台在住の北川隆一さんという方。私は常々「ポール・モーリアでなら修士論文くらいはいつでも書ける」と、他人が聞いたらそれが自慢話なのかどうかも全く分からないような大言を吹いて回っているのだが、この北川さんクラスになると修士だの博士だのという次元をはるかに超越して、まあ天皇陛下とか、法王とか、大体そんなレベルの造詣だという感じ。全国には他にも業界的に有名なマニアが何人かはいるのだが、ポール・モーリアというアーティストに関する情報の量や深さのみならず、今回発売にこぎつけたような「まるで一般的ではない」マニアックなコレクションを、現実の商品としてレコード会社にOKさせてしまう人間力が、そもそもただ者ではないのである。そんな稀有な人物が、どういう巡りあわせか仙台にお住まいだったのだから、私もつくづく運が良い。このご縁のおかげで、何年か前にポール・モーリア追悼公演をやった際には、コンサートのパンフレットに大層なスペースを用意していただき、好きに書いていいと作文を任せていただいたこともあった。以下はその時の証拠物件。

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このパンフレットで、小生の駄文をポール・モーリア大先生のお写真と並べていただいたこの時点が、まぎれもなく私の人生の絶頂期で、以後は退潮期というか下り坂。実際、すぐ近所で原発も爆発したし、野蛮な白人も含めた人類の究極の到達目標であるはずの憲法九条の理念をこともあろうに日本自らが断念して俗物化の道を選ぼうとしつつもある。やはり、今は正に長い下り坂を転げ落ちている最中と見て間違いなかろう。だから、もうあのパンフレット執筆以来、ポール・モーリアに関して予期せぬ感動に見舞われる機会などなかろうと半ば諦めてもいたのだが、悲観的予想はかくも見事に裏切られたわけである。北川さん、本当にどうもありがとう~!!!

なお、上掲の追悼公演はジャン・ジャック・ジュスタフレ(略してJJJ。最近は、じぇじぇじぇ、と読む)なるおじさんがタクトを取ったのだが、これが後々大問題の種となってしまった。

最初にJJJを楽団のリーダーに指名したのは他でもないポール・モーリアだったのだが、そのことに関連してモーリアは前任者との間でトラブルを抱え、一説にはその心労が実はモーリアを病魔の淵に追い込んだとまで言われるいわく付き。その後、モーリア追悼公演の開催を未亡人のイレーヌ・モーリアさんが許諾してくれて実現したのが、私の人生絶頂パンフレットだったが、この時JJJがイレーヌさん側から借り受けたポール・モーリアのオリジナル譜面を、後日勝手に自分の商売のネタに流用(当初の許諾の範囲を逸脱して、あちこちでポール・モーリアの名を騙って演奏旅行)し始め、当然、イレーヌさんと揉め始めることに。

それでもJJJは悔い改める様子もなく、実際今年の春にもポール・モーリアの看板で来日公演を強行。盗用コンサートにお金払っちゃいかんよなぁとか思いつつも、そこはやはり一応どんな様子だか見てみたくなる弱い心の私は、人見記念講堂のJJJを見に行っちゃったりもしたのでしたが、この時点でイレーヌ夫人の怒りは抜き差しならぬ状態に達し、とうとう「ニセモノ」退治のためには、自ら本物を立てて正当性を主張するしか無いと決意。そうしたきな臭い流れの中で(だったからこそ?)実現したのが、今回の70周年記念コレクション。本コレクションには、イレーヌ・モーリア夫人がオーソライズした旨が随所に明示され、それはすなわち「どうもそちらの国(日本)で夫の名を騙る者がいるようですが、本物は別に用意しましたからね、ご注意あそばせ!」と意思表示しているものと見て、ほぼ間違いなさそう。

この件については、実に様々な人物が複雑に入り乱れて、今現在も騙しあいを演じているのだが、詳細はまた機会があったらということにして、結論としては、自分一代限りでその生命の終焉と共に楽団も伝説に変えてしまいたいというポール&イレーヌ・モーリア夫妻の願いは、全く実現させて貰えなかったということ。ポール・モーリアという名前は、日本ではまだまだ結構なお金に化け得るという現実が存在すると、要はそういうことだろう。我が人生絶頂の象徴である追悼公演パンフレットの表紙に、大先生のお姿の脇でちょこっと写ってるおじさんが、これ程までにイレーヌさんを苦しめる結果になってしまったのだから、私としてもなんだかJJJに味噌を付けられてしまったような気分も少なからず。とりあえず、出来てしまったことはもう仕方ないので、我が家にやってくるとは夢にも思っていなかった、若き日のポール・モーリアの埋蔵金の数々にじっくりと耳を傾けたいと思う今日この頃である。