「院長ブログ」「あおぞら講話」に、「AIに『人生相談』をするとどうなるか?②」を掲載しました。
とにかくすさまじい速度で変化していゆくAIサービス。この変化を「進化」と呼んで大丈夫なのかどうかを考える暇もなく、恐るべきスピードで変貌を遂げるさまは、文字通りの前代未聞でしょう。
「前代未聞」が爆速で連続して立ち現れるのだから、それに理解が追い付かないことなど当たり前・・・それは確かにそうでしょう。
かくいう私も、この爆速についてゆけそうにない焦燥を「こんなの仕方がない。俺が取り立ててバカだから置いて行かれる訳ではないだろう」とブツブツ唱えながら、当面の安堵につながりそうな、よりもっともらしい言い訳を求める今日この頃です。
しかし、理解が足りないのは、件の爆速AIに限定した問題なのでしょうか。AIなんかが登場する以前に、私たちが人生について悩んだり迷ったりすることの本質を突き詰めて考え、理解できていたといえるのかどうか。
AIが殴り込んできたせいでひっかき回されているように見える私たちの人生ですが、AI登場以前からヒトのアタマというものが、何を見聞きして、それをどう受け止めて(インプット)、どんな判断なり解釈を下し、どのような反応や行動に移してゆくのか(アウトプット)という流れについて、どれほどの理解や見識を有していたのか?を考えるとき、AI「以前」の状態に対する理解がそもそも十分であったのかについて、不安にならざるを得ません。
胃は食べたものを受け止める臓器、肺は呼吸によるガス交換をする臓器、腎臓は尿として老廃物を体外へ運び出す排泄を担う臓器・・・このあたりまでは、誰しも違和感なく自明だと感じるもの。
ところが、判断とか感情とか知識の統合とか、はたまた説明のしようもなさそうな「今の気分」の如き、「ハイこれです」と手に取って見せてあげられないような物が生まれてくる仕組みの話になった途端、それらが多分「脳の働き」に深く関係しそうなことは誰もが知っているにもかかわらず、よし、ちゃんと理解してやろう!という気持ちになり難い状況が元々あるのではないか。
AI以前がどうだったのかもわからない私たちに、日々AIに揺さぶられる今現在も、近い将来どうなっていきそうかも、そんなのわかる訳がないという可能性が浮上してまいります笑。
ヒトのアタマはどんな仕掛けや特性を持つ臓器なんだろうか?というそもそも論に遡る機会としても、AIは「何かやってくれそうな」雰囲気を漂わせているように感じます。