安保関連法案ですが

岩沼市議会の「いわぬまアシスト」という会派が7月12日付けで発行した新聞折込誌を見て、唖然としました。我が岩沼市議会は、国会での「安全保障関連法案の慎重審議を求める意見書」を8:9の議長裁決で否決したというのです。すなわち、今後50年の日本国民の運命を方向付けることになる重要法案について「慎重かつ徹底した審議が行われなくてもいい」という意思表示を、岩沼市議会として表明したようなものです。

連立与党の議員が「慎重に審議しなくてもいい」に票を投じることですら正当化は困難ですが、しかし、心情的にはさもありなんという気もします。私個人としては、自民党総裁である安倍晋三首相の「小者ぶり」に対して、公明党が従前掲げてきた理念と整合性のある見識を示さなかったことに深く失望しておりましたが、市議会においても長田忠広(公明)議員はやはり自民党市議と共に「慎重に審議しなくてもいい」派に名を連ねていました。

それにも増して驚き呆れたのが、一応無所属っぽい市議5名が反対に回ったこと。そして、賛否が拮抗した岩沼市議会の総意を決する最終局面において国井宗和議長の議長裁決により意見書を否決してしまったことです。
当該意見書の内容というのは、安倍自民党が成立へ向けてまっしぐらに突き進む今般の安保関連法案の内容自体に踏み込むものではない訳ですから、法案への賛否によらず、次代を担う若い人たちに対して大人の思慮というか、未来を託す期待を表明する一つの形として、今般の重要法案(それこそ、国家の存立にかかわるレベル!)については、拙速を避けるよう釘を刺しておきましょうねということで、全会一致で「賛成可決」するのが普通じゃないのでしょうか。

にもかかわらず否決した意味は何なのでしょう。私は直感的に、昨年来繰り広げられてきた岩沼市議会における泥仕合の意趣返しから、いまだに離れられずにいる議員が過半を占めたのだなと思いました。国会の審議事項はどれもみな重要には相違ありませんが、今度の安保関連法案の重要性は、やはり格が違うといわざるを得ません。それを、市議会の泥仕合の私怨に絡めて処理してしまったのだとしたら・・・。事実がどうなのかなど知りません。私がただそう感じたというだけです。

日本の安全保障問題というのは、諸外国のそれと比しても、やはり矛盾や論理的整合性を見い出し難い点をたくさん抱えたまま、「それでも日本は発展できたし、何とかなっているじゃないか!」という現状追認一辺倒で、日本を取り囲む世界における力関係の変化などまったく存在しないかのように、思考停止したまま戦後70年も経ってしまいました。

私は日本国憲法前文の精神は今時点でも全人類の範となる内容だと思っていますし、扱いが最も難しいとされる条文の代表である第9条についても、武力による紛争解決は要するに弱肉強食の前近代性に他なりませんから、人間が目指すべき理想として、その理念は最大限尊重されるべきだと考え、普段からその立場を表明してもいます。

ただ、日本国憲法に現行の第9条が「書いてある」というだけで、その理想や理念が実現するわけでないこともまた自明だと考えます。日本の憲法に何が書いてあるかは、中華思想と膨張(侵略)主義をそもそも問題だとは思っていない共産中国の行動を制約するわけがありません。南沙諸島の問題を、フィリピンを始めとする当事国間ではなく、米中二大国間で決めてしまえることを当然視する中国が、尖閣諸島にまだ直接人を送り込んでこないのは、アメリカがそれを容認しないと(一応)意思表示したからであって、日本が人類普遍の理想を日本国憲法に明記しているから遠慮しているわけではないことも、明らかでしょう。

安保関連法案で問題になっている集団的自衛権についても、冷静によくよく考えてみると、随所に矛盾というかダブルスタンダードが潜んでいます。上述した尖閣諸島に共産中国が人を上陸させてこないのは、結局のところ日米安全保障条約なくしては説明が出来ず、その米軍がなぜアメリカ本国から遠く離れた日本に公然と存在して中国に圧力をかけているのかといえば、それがまさに集団的自衛権だという見方も出来ます。
となると、アメリカが集団的自衛権を行使して、日本の国土や権益を脅かす外国(この場合は中国)に対して武力で威嚇的に抑止力を発揮するのは良いが、日本が集団的自衛権を行使して、アメリカの侵略戦争の片棒を担いだり、使いっ走りになるのは憲法違反である・・・と言っているように見えなくも無いことになります。もちろん、日米安保条約は普通の意味での公平対等な条約ではありませんし、侵略戦争をお家芸とするアメリカの「遠隔」世界戦略上、日本という場所が地政学的に好都合なので親切ごかしに正規軍を駐留させている・・・等々の反論はあるでしょうが、純粋に個々の対応や実情を論理的に整理してゆくと、なんだかおかしなことになる点が沢山あるという例の一つとして、耐え難きを耐えて、逐一、議論の俎上に乗せてゆかなくてはならないと思うのです。

日本が軽武装で済ませられたこと(つまり、直接軍備以外の民生分野にお金を重点的に振り向けることが出来たこと)と、戦後70年間も他国の軍隊が何食わぬ顔で日本国内に展開し続けた植民地のような状態について、今後どう折り合いをつけてゆくのか。人口、物量のすべてにおいて日本を圧倒する中国と武力で雌雄を決するような筋書きは、それこそ第二次大戦における対米開戦の二の舞になるしかない宿命を抱える日本が、どうやってその国土と文化の独立を維持してゆくのか。考えなければならない論点(その多くは、戦後その時々の空気や事情に応じて「考えたくないから考えない」ことにしてきたものばかり)は両手でも足りないほどあるため、どう逆立ちしても、政局的な日程や安倍晋三個人の趣味やロマン実現の都合に合わせて「慎重に審議しなくてもいい」ということには、ならないはずなのです。

若者の政治離れというか、政治的無関心といったものが言われて久しい昨今。しかし、どうも当の若者と呼ばれる世代の人たちの話を聞けば聞くほど、我々上の世代がいかに的外れな若者像を前提に議論を進めてきたかが露見し、赤面せざるを得ない場面に最近よく遭遇します。彼らは政治的に立場を持たないわけでは断じてなく、人口に占める割合という意味でのマイノリティとして、今まさにどれ程割を食っているか、今後どんな冷や飯を食わされそうか、はたまた安倍晋三流安保法制で冷や飯どころか煮え湯を飲まされそうになっているのかについて、十二分に自覚していると、そう見方を改めたほうが良いのではないかとさえ感じています。

そんな彼らが、なぜ我々上の世代に対してしらけた態度を取っているのかを考えたとき、社会通念上、到底整合性を持ち得ない「憲法第9条と自衛隊の関係」であったり、中国という侵略主義国家と対峙する裏付けとしてアメリカという侵略主義国家に隷従することに誰も違和感を持たない戦後のありようといったものに対して、ご都合主義、二枚舌、思考停止といったネガティヴなキーワードが次々受けんで来る限り、マトモに議論する気にもなれない・・・そんなような雰囲気さえ漂ってくる気がするのです。

一番悪いのは団塊の世代だ!という説は、当の団塊の世代の一部をも含めて、かなり広く受け入れられている日本社会「無責任罪」の主犯はだれだ?論の解説なので(笑)、正直私も油断していました。ところが最近になって、数の多さで言ったら団塊ジュニアだって同じだろう、しかも受験戦争の一発勝負だけでほぼ人生の安定を手に出来た経験から来る「安易さ」「思考停止是認」という意味では、現役世代だけに、実はこいつらが一番悪い奴らなんじゃないか?系の言説があちこちで歓迎的に受け入れられている状況を聞き知るにつれ、書いても書いてもきりがない上に、書けば書いた分だけ誰かから攻撃対象にされる?安全保障問題について、まさか安倍自民党の強行採決を目の当たりにしてもなお「知らぬ顔の半兵衛さん」を決め込むわけにも行くまいし、第一、自分の子供に「父ちゃんはそのときいったい何をやっていたんだよ?」と後年責め立てられること必至だし、それじゃあまるで「何でゴミの始末も出来ない原発を馬鹿みたいにたくさん作って、悔やんでも悔やみきれないようなドブ銭を容認したんだよ、あんたらはさあ!」と我が親に詰め寄った私が、次代を担う子供から同様の非難を甘受するみたいな因縁話になってしまうよ・・・とまあ、結局は我が身一つだけがカワイイ的な動機から、とりあえず安保関連法案についてあれやこれや思索しているところです。

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