②集団的自衛権の閣議決定問題

シリーズその2は国防問題。というか、主権国家だというのに、国防というとアメリカ合衆国との二国間関係からしか話を始められない奇妙さ。アメリカが圧倒的に強かった時代には、結果的にせよ、その腰巾着になって顔色を伺うというのも、現実問題として一つの作戦たり得たが、さすがにもうそれでは厄介な連立方程式は解けない。国防といわずに、防衛と表現するのも、何か意味があるのかどうか・・・。

②集団的自衛権の閣議決定問題

安倍晋三は消費増税の先送りという選挙民にとって都合のいい決定を下したところで「信を問う」と言った訳だが、国の防衛をどうするかという国家の存亡にかかわるような高度に重要な決定については、国会の議論すら省略して、お得意の「この道しかない!」を連発して閣議決定してしまった。まったく選挙民を馬鹿にした変な理屈である。これに引っかかる方も引っかかる方で、それが現状における国民の能力的限界だということにもなる。

余談だが、「~しかない」とか「絶対~である」といった表現は理知的な人間なら軽々に使わないものである。そこへ更に「(自分がそう)思う」などという表現がくっついてきた日には、もうおしまいである。人の話が聞けず、かといって自分に定見があるわけでもなく、客観的事実よりも自分の好みや予断、ときに思い込みの方を根拠に判断を下してしまうタイプの情緒的人物は、例外なくこの手のものの言い方を連発する。

話を戻そう。私は理念として、現行憲法の9条は人類が共通して目指すべき理想であると考えているし、憲法9条の世界観を沢山の人々に知ってもらう機会が増えるようにと、微力をも省みずそういう活動にかかわってもいる。

しかし、現在の日本が曲がりなりにも戦火に追い立てられずに日々の生活を送ることができているのは、憲法九条が「存在するから」だとは思っていない。存在しているだけで、まったく形骸化しているし、上述した政治家の言行不一致を見る以前に、この憲法九条こそが日本という国の対外的な「言行不一致」を誰の目にも明らかにしている、動かぬ証拠であるというのが私の認識である。

戦後、直接の軍事的攻撃を受けることなく、経済活動に専念できたのは、憲法九条が「ただそこにあったから」ゆえの結果でないことは明らかであろう。世界最大かつ最強の軍事力を誇るアメリカの実働部隊が常時日本国内に駐留することを認めたこと、さらに周辺の利害関係国の力が日本のそれに追いつくのに要した時間がまさに日本の戦後史とオーバーラップする巡り合わせにあったということ、この二点を差し置いて、憲法九条が廃止されずに条文として存在した事実だけを「戦火に追い立てられずに」済んだことの原因とするのは、いくらなんでもむちゃくちゃに過ぎる。

そのアメリカが弱体化し、実際アメリカ自身が在日米軍の規模縮小を何年も前から公言するようになり、そして何より、とてつもない強国に成長した中国が、直近200年位?の落とし前を付けさせて貰いますよと日本に挑戦してくる状況が現実のものになった。

何度も言っていることだが、日本が金持ちだったから出来たこと、通すことが出来た言い分といったものを冷静に思い出してみれば、いよいよ日本より金持ちになる中国が何を言ったりやったりしてくるかなど、実は誰にでも想像できることばかりなのに、それを考えたくない、想像したくない、受け入れられない的な「幼児性」が、産経新聞に代表されるヘタレ保守のみならず、左翼的といわれる人たちに至るまで蔓延している点が、深刻なのだ。

どういうことか。自分の国は自分で守るのが当然で、それを今後も弱り行くアメリカに期待するなどというファンタジーは、逆立ちしても現実世界でこれ以上延長することは物理的に不可能であるということ。そして、ここからが誰も言わない肝なのだが、古典的常識に従って軍備を増強したとしても、巨大中国を相手に日本が勝利する可能性は最初からゼロであるという点。どんなに大金をつぎ込んでも、動ける大人を根こそぎ徴兵して頭数を増やしたとしても、残念ながら結果は微動だにしないこと。巨大な国土と、途方もない人口と、強権的な独裁政治(というか、実際にはまず人民解放軍あっての北京政府なのだが)がトップダウンで何でも進める統治機構と、そこから生み出される十分すぎる内需、そして世界中に張り巡らされた中国人ネットワーク。これらを手にした中国が、いよいよ大金持ちになって世界経済に直接コミットしてくるようになったのだから、日本の軍隊(自衛隊)がアメリカへのゴマすりを兼ねて型落ちのミサイルや戦闘機をいくら買い込んだところで、勝負にならない。まずこの点を現実、事実として受け止めるところからしか、日本の将来像は描けないはずなのだ。なのに、自民党から共産党まで、はたまた威勢の良い何とかの科学に至るまで、日本は戦争で中国に勝つことは出来ないという残酷な事実を国民に語ろうとはしないのだから、どこかの政党を選ぼうったって、選びようがないのである。

今更だが、集団的自衛権の行使は、対中国戦略において何か役に立つような代物ではない。実際、安倍晋三も多分、そんなことは一言も言っていなかったと思う。ただ、そのように誤解させる、錯覚させるように、世論形成のためのさまざまな操作がなされているということである。

戦争で勝てないならおしまいか? もちろん、答えはノーである。アメリカに勝てる国はアメリカしかいない時代は、アメリカにくっついてさえいれば何とかなった。中国に勝てる国は中国しかない状況になったら、中国以外の国は全て中国の軍門に下るしかないといえば、それが論理的に間違いであることは容易に理解される。そのために、外交がある。

外交は、世界規模の会議に出て行って、自分の主張の正しさを証明することだと勘違いしている向きも少なくない。本当の外交とは、主張の正しさを競うのではなく、自国の主張に同調する仲間を増やす為に全力を挙げることである。同調してもらうためには、相手に相応のメリットがなければならない。メリットというものは、自然に湧いて出てくる幸運に恵まれることも皆無ではないが、多くは知恵(しばしば悪知恵)を絞って悪巧みの枠組みを構築し、無理を押し通すための屁理屈を創造し、正面切って反対しづらいような大義名分をでっち上げ、そしてその話に乗った者たちが応分の儲けに与れるルールを打ち立てることによって、産み出されるのである。

日本の外務省は、アメリカの意向をたくみに汲み取ることには熱心だが、日本の国益を最大化するために、あるいは強大化する中国の存在を快く思わない国々との共闘の輪を拡大する為に、税金を有効活用してくれている形跡はほとんどない。これこそが、まさに日本にとっての真の脅威である。

憲法九条は、日本国憲法の条文であるから、日本の権力に対する制約には相違ない(安倍晋三政権はちゃっかり憲法遵守は「国民の義務」だと、公民の教科書も裸足で逃げ出す新学説を臆面もなく申し述べ、かなりの国民がそれをおかしいと思う基礎学力すら具えていない現実は注目に値するが)。

しかしそれが、たとえ嘘っぱちでも事実と異なろうとも平和憲法なるものが「存在している」からといって、中国の側がなにか日本に遠慮しなければならない理由はないわけで、中国は中国の都合で、日本に攻め込もうと思ったときに何らかの形で攻撃を仕掛けてくる。そのような状況なり、立場に置かれている日本にとって、米国とのかかわりを機軸とする集団的自衛権の行使容認をもってわが国の平和と安全を云々するなど、見当違いも甚だしいという視点を持ちたいところである。