所沢市の「育休退園」問題ってさあ・・・

「第二子が生まれるからと母親が育児休暇を取得したら、すでに保育園に通っている二歳以下の上の子(第一子)を退園させる。」という制度を埼玉県所沢市が新たに導入したことを受けて、所沢市の子育て中の親17人が制度の違法性を主張し、退園差し止めの仮処分を求めていた件で、さいたま地裁はこれを退けたそうです。

話の筋としては、待機児童がいるのに休職して自宅に母親がいる子供の面倒まで自治体が面倒見たくないと、要はそういうことです。審査に漏れて保育所に入園できず、就職もできないで困っている親などから「退園は当然だ。私たちのほうが余程困っている。」的なコメントをもらってきて紹介するマスゴミもありました。

しかし、ちょっと頭を冷やして考えてみて欲しい。せっかく狭き門をくぐり抜けて?入園させた上の子が、第二子の育休取得で再び放り出されるのも、働く意欲も必要も十二分にあるのに子供を預ける先が無いために就労できないのも、いずれもとんでもなく大変な状況であるからと言って、かくもあっさりと問題の本質を見失っていいことにはならないでしょう。

そもそも、就労を希望する親が保育所の空きがないので働けないということ自体がおかしい。そこから先の問題や個別の是非なんてものは、始めから枝葉末節の類であり、保育所一つ満足に用意できないような予算配分なり執行の仕方が今に至るまでまかり通ってきたことこそが、大問題でしょう。大変なだけだから子供作るのはやめとこう・・・なんて人が増え続けたら、世の中成り立たないことだって、誰でも知っているはずです。

日本は(実態はともかく)民主主義を標榜しているのですから、働きたいという人を「働かせない」というのは権利の侵害そのものです。しかも、アベノミクスとやらでは女性の活用と称して、かくなる上は女といえども生産性に寄与しないようなやつは存在自体を許さないからな!的な脅しまでかけて、とにかくなるべく少ない元手(税金投入)で、なるべく多くの税収を揚げましょうと言っているのに、同じ時期に「働くな」と言う。

揚げ句の果てには、幼少時の人間形成において母親の存在は特別であり、密着してその養育に従事するのが望ましいといった言説を、役所の怠慢の言い訳になると信じて公言して憚らない、面の皮が厚すぎる首長なんてのがいたりもします。母性の重要性について、ろくに子供の世話もしたことが無いような市役所市議上がりのオヤジ市長に説教されるまでもありません。親の養育を得られない子供たちを育てる施設においては、男の職員はゼロでも運営可能だが、逆(女の職員ゼロ)は絶対に有り得ないという教育心理学の成果を鑑みるだけでも、当たり前の話です。

子育てに関しては、どうもこの手の論理のすり替えが横行しており、似たような話がしょっちゅう手を変え品を変え立ち現れます。たとえば、混雑のひどい時間帯にベビーカーごと電車に親子が乗り込むことについて、その「是非を論ずる」などというのもその一例でしょう。電車など、規定の運賃を支払ったら、誰がどこから乗り込もうが、乗車の是非自体について文句など言われる話ではありません。おかしいのは、世界第二位の経済大国とか言いながら(というのも遠い過去の物語になってしまいましたが)、世界中が呆れ返るような異常なピーク時混雑率を放置し、都市生活者の惨めで貧乏くさい鮨詰め通勤地獄を恒常化してしまったことの方です。狂気のレベルまで混まないように、設備を拡充するのが筋です。

首都圏の鉄道では、次から次に他路線への乗り入れ直通運転を広げたのはいいが、やれどこそこの駅で「人身事故」だ「線路内立ち入り」だと言っては、全線運行停止の憂き目を見るようになりました。週初、週末ごとに飛び込み自殺者志願者が現れる(こと自体も社会の病理ですが)というのに、ほとんどの駅に満足にホームドア一つ付いていない。我が懐かしの最寄り駅である新小岩(快速停車駅)など、今では都内屈指の「名所」。高速で快速線ホームを通過する特急成田エクスプレスをどうすることも出来ずに、駅ナカに巨大な水槽を置いたり(魚を見せて気を鎮める?)、構内を真っ青に照明したり(青い光源のほうが自殺率低下のデータあり?)、果ては非常時列車停止ボタンの「練習押し」をさせるための模擬ボタン装置なるものを大真面目に増設して、自殺対策をしている状態。これを貧しさ、貧乏くささと言わずして、一体なんと言うのでしょうか。

都会だけではありません。我々が住むこの辺のような田舎であっても、「鉄道会社は本業では利益を出せない」という国鉄時代から語り継がれている何の根拠もない言い訳伝説が当然視されているせいで、真昼間ともなれば一時間に二本しか電車が来ないような不便を強いられているというのに、この貧しさはいったい誰のせいだ?という視点が、利用者の側からもすっかり抜き去られてしまっています。ちなみに、都市工学や交通システム工学的には、鉄道は運行本数を増やすことでしか収益性は発揮しようがない、というのが学問的な正解です。国鉄以来ずうっとJRが適当に楽して仕事をしているから運行側は困っていない一方で、利用者側は二言目には「利用者数が足りないからだ」とありもしない架空の責任を押し付けられて、黙ってしまっているだけ。競争がないので、運行してやっている、乗せてやってる的な筋違いもまかり通ってしまいます。投資もでかいが収益もでかい東北新幹線の定時運行に懸けるあの熱意や、首都圏の駅舎ビジネスで不動産業の味をしめてしまったJRの顔とは、全然別のそればかりを我々は日々甘んじて受け入れているわけです。

所沢の育休退園問題も、まさにこの類だと思ったわけです。歴史的に見て、ずっと絶え間なく市の財政が苦しいままだったわけではないのは、一定規模以上の都市ではどこも同じです。自主財源が無ければ無いで、交付金や補助金で埋めてくるのですから、過疎地でも本質は同じです。要は、それをどう配分するか、本気で真面目に将来を見越して計画的に社会資本投資を実行していったかどうかと言うことに尽きます。無論、そうはしなかったからこうなっている訳ですね。一口に公共事業と言っても、利権として抜きやすい土木にはバンバン廻したが、教育には吝嗇を貫いたから、何十年も前から正確に予測できた人口動態についてすら、頬被りをしてきた結果が待機児童の山です。

その被害者である、就労を希望する親同士が罵り合っているようでは困ります。ベビーカーを電車に乗せていいかどうかを、大の大人が真面目に議論しているなど、本当に馬鹿みたいな姿だと気づくべきです。多少変な人やおかしな行動を取る人がいるのは、社会に相応の数の人間が存在するからであって、ベビーカーに乗せる年恰好の子供がいるかいないかでカテゴライズするような問題ではないのです。子供の有無によらず、世の中に変な人というのは一定数存在する。ただそれだけ。そんなことは、問題の本質ではありません。敵は厳然として別のところにいて、お人好しの国民庶民を高い所から小馬鹿にして笑っているのです。

一応九条準備会の末席を汚す私はつい最近知ったのですが、日本国憲法第27条にはこんなことが書いてあるのです。

第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

義務なんですね。働かないで遊んでいるのはマトモじゃないって刷り込みはありましたが、憲法に義務だと明記してある以上、不労所得だけで暮らすピケティ的な世襲族も、駄目ってことですよね? しかし、それ以上に、ピケティじゃない私にとって問題なのは、権利であり義務でもあるという件をどう実現したものかという点。権利はまあ、何かと理由をつけては制限してくるのが権力というものですが、私がどんなに公共心に溢れ、遵法精神を高めたいと願ったところで、とりあえず、うちは夫婦別業種の共稼ぎだという時点で、埼玉県所沢市では非国民にならざるを得ませんね。二人目育休決定で上の子はうちに連れて帰れって言われたら、実際問題、一体どうやって動物病院なんか経営できるのか、私の弱い頭では妙案など思いつきそうにありませんから。

変な理屈で自分の権利が侵害されそうになったら、身近な似たような境遇の庶民に文句を言う前に、本当に悪い奴が他にいないかを良く確かめてから、反転攻勢、実力行使に打って出たいものです。

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