「敦賀を夕張のようにするな」との悲鳴があるという(福井新聞の記事)。事実に相違あるまい。
福島で16万人以上が自分の家に帰れない状況は必要悪だと切り捨てる産経が
敦賀で3000人の雇用が消えた!と、臆面もなくヒューマニズムを騙る。
もともと出稼ぎなしでは生活が厳しいほどの地域を狙い撃ちにして立地したのが原発だし、
ひとたび受け入れるとそこに依存する構造が土台になって、地域は年月を重ねてゆくのだから、
ある日急に「原発はやめにします」と言われることは、勤め人一般が
「本日をもってうちの会社はなくなります。」
といきなり言われるようなもの。その恐怖は想像に難くない。
しかし、それとこれとは別、という話がそこにはてんこ盛りである。
活断層の有無で発電所の安全を決すること自体、実は欺瞞に他ならないのだが、それでもなお、
日本は一応今でも法治国家だという建前がある以上、活断層直上に核施設を建設するのは違法行為であって、
そのことと、「既存不適格」物件である断層直上原発で働いてきた人の雇用をどうするかとは、
全くの独立事象である。
福島の爆発事故以来、筋も道理もない惨憺たるありさまを嫌というほど見せつけられてきたが、
原電敦賀をどうするかは、規制する根拠としての法律というものを、この国は一体どう考えているのかの
試金石の一つにはなるかもしれない。
敦賀1号機は、オンボロの償却済み老朽沸騰水型をどうするか?のパイロットケース。
敦賀2号機は、相対的に機齢が若い加圧水型が実は活断層直上に建ってたという公然の秘密を、
今更ながら正式に認知することになったんだけど、どうしようか?のモデルケース。
千年に一度とやらの大地震で配管はズタズタな上に、大量の海水をザンブリ被った女川原発。
電力会社としてはまだまだこれから回収するつもりだった微妙な機齢の沸騰水型を
「地震に耐えた世界に誇る女川原発」だと言い張って、再び稼働させそうなわが郷土の行く末と相まって、
目が離せない。
女川をもう一回使おうだなんて、私には作動中に水濡れしたパソコンを良く乾かせば元通り使えると
本気で思っているとか、正面衝突事故で正常動作して無事役目を終えた自動車のエアバッグを広げてみたら
「あら、まだ使えそうね♡」とか言って丁寧に折りたたんで元に戻そうとする神経であるとか、
いずれにせよ著しく「常識を欠く」判断だとしか思えないが、世間的にはそうでもない人もいるらしい。
既存原発の雇用問題にしても、「もともとなかった仕事」である原発は、幸か不幸か廃炉工程にも
途方もない時間とマンパワー(従って資金も)が欠かせないわけで、廃炉決定により今現在原発で生計を
立てている人の仕事が消えてなくなるというのは、おそらく事実たり得ない。
1950年代に英国セラフィールド(旧ウィンズケール)の黒鉛減速原子炉が火災を起こし、大量の放射性物質を
まき散らして廃炉になったものも、何と今現在でさえ作業終了のめどは立っていない。放ってはおけないから、
コンクリで塗り固めたり、バラバラになったものは丸ごと水没させたりして、その先をどうしようか今も考え中。
英国には原発廃炉の専門省庁まであるが、それでも一度稼働させた放射能まみれの原発プラントは手に負えない
というのが真実。セラフィールドよりずっと後のチェルノブイリでは解体など論外で、一度作った蔽い(石棺)が
すでにボロボロになったのだが、それをどうしようかというレベル。
正常な原発稼働の結果である使用済み核燃料の処分場さえ決まらない訳だから、首尾よく原発プラントの解体
作業にこぎつけても、その先の持って行き場がないのは同じこと。どんどん解体すればいい、とは決してならない。
今すぐ方針を転換して原発麻薬をやめると決意しても、原発プラントとの付き合い自体を清算・消滅させることは
残念ながら不可能。
しかし、行き詰まりを見通したにもかかわらず、打算と惰性が原因で積年の悪弊を断ち切る決断ができない
のだとしたら、まさに幼児性の発露そのもの。
トイレのないマンション。
それを知っていながら、抜本解決をさらに先送りしようという発想には、私は到底ついてゆけない。