あおぞら動物医院

漢方・中獣医学・宮城県岩沼市・0223-24-0672

院長のひとりごと(小世界)に、「麻布大学付属動物病院」を掲載しました。二週続けて日曜日を休診にしてご迷惑をおかけしてる間の、院長の神奈川思い出紀行?です。

あおぞら講話に「ペットの空輸について」を掲載しました。夏休み、冬休みのたびに、空輸に絡む体調不良の診察を依頼される機会が散見されます。しかし、ほとんどの場合、オーナーさんはペットを飛行機に乗せることがどういうことなのかをよくご存知ありません。そして、後で実態を知ってから後悔されるパターンも少なくないのです。航空機でのペット移送をお考えの方は、ぜひご一読ください。

お盆ですが、お変わりなくお過ごしでしょうか。

さて、本日、ちょっと気になるニュースを見つけました。

飛行機に預けたチワワが熱中症で死ぬ

全日空「過失ない」に賛否両論

扱いとしては、全日本空輸が当該事故に対して「過失はない」との見解を表明したことについて、あるいは離島へ遊びに行くのに犬を連れてゆくこと自体の是非について、ネット空間で良いとか悪いとか議論になっていますよと、紹介している形。

しかし、やはりペットオーナーにとって一番大事なことは「ペットを飛行機に乗せる」とは、具体的にどういうことなのか?をちゃんと知っておくということに尽きます。事故が起きてしまってから、責任が誰にあったのかを論じたところで、死んだペットは帰ってきません。航空会社からいくらお金を貰ったところで、生き返りはしないのですから。

で、本題に入ります。

各自が持参したキャリーに入れられたペットは、そのまま動物用のコンテナに混載されます。空港のチェックインカウンターで預託手荷物(機内に持ち込まない手荷物)を依頼すると、背後のベルトコンベアに乗ってスルスルと荷物がバックヤードへ消えてゆくのを見かけます。多くの場合、すぐその先からペットも同じルートをたどり、ターミナルビルでコンテナ詰めされ(航空機の直下まで数珠繋ぎになって運ばれてゆく、あれです)、その後機体へ積み込まれます。この間、空港施設の仕様にもよりますが、基本的にコンテナ詰め作業自体は屋根の下ですが、そこも含めて当然空調も温度管理もありません。また、出発便、到着便が入り乱れる大規模空港や、小規模でも機材繰りの遅延が発生した暁には、コンテナ詰めされた荷物と動物たちは、アスファルト上にて暫時待機させられることになりますから、夏なら灼熱地獄、冬なら凍死の危機が襲い掛かること必定です。

晴れて航空機に積み込まれた後も安泰ではありません。航空各社は、動物が格納される貨物室の一角は旅客キャビン並みに与圧され、また空調も行われると説明していますが、それらが旅客キャビンと全く同等かどうかは疑問が残ります。実際、客室と「完全に同じ」だとか「同等の」といった表現をとっている会社も見かけません。動物がたぶん許容できるであろうと考えられる程度に、与圧したり冷暖房したりしていると、そう理解すべきでしょう。ヒトが乗るキャビンですら、工学的な都合では、出来ればあんまり与圧はしたくないとか、空気はなるべくカラカラに乾燥させておきたいという方向性が存在し、そこから完全には開放され得ないジレンマが航空機には宿命付けられています(与圧も加湿もお客の快適性は高めるが、機体の劣化・脆弱化に直結しかねない)。

そして、その試練も無事乗り越えたところで、再び到着ターミナル側で前述の逆の作業(荷解き)が待っているわけです。

さらに別の視点でも、そもそも、動物専用コンテナや貨物室内のスペース自体が、様々な病原微生物で汚染されている可能性も、決して無視できないリスクです。キャリーから漏出した排泄物は、肉眼的に「ある程度きれいにする」ことは出来ても、滅菌までは不可能です。ある程度きれいにする・・・のも、常識的には雑巾がけ程度が関の山。そんなことで伝染性疾患の伝播が防止できるなら、入院治療する動物病院も苦労はない!ということになるのです。

以上の流れを知っていただければ、ペットの空輸は相当に危ない点があると合点がゆくことでしょう。特に、夏の暑い盛りや真冬の積載は、そのまま輸送の道中にペットが遭遇する過酷さを不可避にするのだということが、お分かりいただけたと思います。

蛇足にはなりますが、ここまで読んでいただけた後でなら、冒頭でどうでも良いことと切り捨てた「チワワを預けた飼い主」に対する評価というものも、おのずと一つの方向に収斂されそうな気がしてまいります。命を懸けるほどの必然性もないのに、安易にペットを空輸しようなどと考える飼い主の発想には、獣医師として首肯できません。信頼できるペットシッターを探しておくなり、かかりつけ医に「社会的入院」の可否を相談してみるなり、出来ることは他にもあるだろうというのが、その理由です。

一方、受託する側についても、料金を徴収する以上、委託側が背負うことになるリスクの内容と、それに対する受託側の回避努力の限界について、より具体的かつ詳細な情報提供をすべきで、その上で始めて免責に関する同意書を差し入れさせるのでなければ、サービスとして二流以下だといわざるを得ません。やむを得ず動物の空輸サービスを利用する皆さんの側から、航空会社に対して改善を要望してみる必要もありそうです。

あおぞら講話に「獣医アトピー・アレルギー・免疫学会」を掲載しました。週末の診療をお休みさせていただいて出席した会合に関連し、「アレルギー」という言葉にまつわる雑多な話題について紹介いたしました。

Society of Atopy, Allergy, and Immunology in Veterinary Medicine日曜の診療をお休みさせていただき、アレルギーの学会に参加してきました。

アレルギーという言葉は、ヒトの医学においても頻繁に使われ、飼い主さんご自身がなにがしかのアレルギー持ちであると診断されているケースも多いことから、医学用語としての正確な定義とは別に、日常会話の中にも浸透している「一般用語」として比喩的に用いられるケース(「数学アレルギー」とか)が非常に多い単語です。

ところが、本来、学問的な正確さに基いて使われなければならない場であるはずの医療、獣医療の場においてさえ、なにやら一般用語というか、文学的な用いられ方をしている単語の代表が「アレルギー」だという困った実情もあります。ある症状に対して、理詰めでその根拠を明らかにした末の「診断名」としての「アレルギー」なのか、なんだか良く分からないがステロイドに反応するからという程度の軽~いノリでつぶやかれた「アレルギー」なのか、後からよくよく経緯を確かめてみても、飼い主さんはもちろん、獣医である私にも判然としない「アレルギー」というのが少なからず存在し、その「アレルギー」が独り歩きするのに飼い主さんが何年間も振り回されてきたケースというものに、時折遭遇します。

アトピー、アレルギー、食物不耐症、アナフィラキシー、過敏症、食物有害反応・・・この類の用語には、一つ一つ定義があり、厳密に区別されないといけません。それがあやふやだとすれば、当該用語を用いた診断自体もまたあやふやなものだといわざるを得ません。しかしまた厄介なことに、その学界における定義自体がしばしば変遷するという事情もあって、医師や獣医師など、当然専門家だと思われているような人種にとっても、実は正確に整理された状態でアタマの引き出しにしまっておくことは、必ずしも簡単なことだとはいえない面もあるのです。

たとえば今回の会合でも、学会が提唱する「徴候におけるアトピー性皮膚炎の定義」の中に「犬アトピー性皮膚炎(CAD)と食物アレルギー(FA)を鑑別するための補助情報」なる小項目が存在する部分をめぐって、会場の参加者が学会側に対して再説明を求める一幕もありました。解説としては、単に皮膚症状としての「Atopic Dermatitis in dogs」と、ヒトのアトピー性皮膚炎に類似するIgE依存性疾患名としての「Canine Atopic Dermatitis(CAD)」を、なるべく語弊なく日本語に移転するためには、こうするのが妥当であるという現時点での結論から生じた「そっくりさん」用語であるということ。確かに、紛らわしいこと甚だしいわけです。

そんなこんなで、ヒトの医学領域で問題点として指摘されている以上に、獣医学領域においては定義があいまいなままに「アトピー」や「アレルギー」を冠する診断が、どうも「過剰に」くだされているのではとの懸念が久しく言われ続け、今日にに至っているわけです。

こうした事情が関係しているのでしょうか、日常の診療の場で最もよく登場する医学用語の一つが「アレルギー」である割には、アレルギーや免疫に関する学問的理解や議論を深めようという場の話になると、途端に人気のないセミナーなり会議なりに転落してしまうのですから、これがまさに比喩的用法での「アレルギー」アレルギー(?)というやつなのかもしれません。もちろん、そんなことでは患者さんや飼い主さんもたまったものじゃありませんから、我々獣医師も、手掛け難いという意識を払拭するべく、博物学的な用語や名称が飛び交う(サイトカインやレセプターの名称は相当にとっつきにくい)免疫学的空間に果敢に身を投じよう!という努力の一端が、たとえば今回の学会みたいなものへの参加だったりするわけです。他のいくつもの面白そうな学会と開催日が重なった割には、結構な数の獣医師が早朝から集まっていました。

そもそも、この分野はまだまだ事象ないし現象の本質が未解明である点も多く、たとえば犬の食物アレルギーひとつとっても、一体イヌのどこでどのように感作されるのかについて自体、実はあまり良く分かっていないため、それについて厳密な議論を始めようとすると「ところで、これって本当にヒトで言うところの食物アレルギーとおんなじものだと言い切っていいんですかね?」的なそもそも論がたやすく湧き出してしまう素地が多分に存在しているなど、煮ても焼いても食えないような分野だと言えなくもないのです。ましてや、猫にいたっては、犬に比しても「ほとんど何も分かっていない」状態にもかかわらず、様々な病態に対して「アレルギー」という単語をくっつけて会話を成り立たせてしまっているのですから、ちょっと踏み込んだ途端、ボロが出てくる議論の脆弱さと一体の「アレルギー」だと言えましょう。

私個人の関心としては、本来毒でもないはずの食べ物を、なぜこれほど広範に「食べてはいけない」ものとしてあぶりだす結果になったのか?という時点で、いわゆる「アレルゲン検査」の類で「食べられるものはありません」的な全滅症例が頻発する現状は、どこかもっと根本的な部分でボタンの掛け違いがあるのではないかと、常々不思議に感じています。

動物が自分で「何を食べるか?」「何を食べていいのか?」については、普通に考えて、最も生物学的かつ本能的に「知っている」べき知見であるはずなのに、動物の中でもいちばん頭がいいということになっている人間様が、実は何を食べるべきか(何を食べるのが健康維持の理にかなっているのか)についての「定見」を持ち合わせていない様に見える現実があり、そして実際ヒトが健康の維持に苦心惨憺している現実もあり、しかも、その人間様と深く付き合うことになった動物(ペットはその筆頭格)ほど、野生動物に比べ、なんだかヒトで見たような健康問題を抱えてしまっている現実というものを日々見続けている立場の身としては、不都合な症状の数々を片っ端から「アレルギー」として理解してしまう(片付けてしまう)風潮に、なんだか釈然としないものを禁じ得ません。

アレルギー学会での活発な議論を聞きながら、今現在「アレルギー」と考えられている部分の中から、近い将来、「それは全くの誤解であった」的などんでん返しが出てくる余地は決して小さく無いだろうなと感じた私は、とりあえず現在の常識からすると「異端」の部類なんだろうかなどと思いながら、会場を後にしました。