「あいときぼうのまち」

福島出身の脚本家・菅乃廣が監督し、鬼才・故若松孝二監督の遺志を継ぐ脚本家・井上淳一作り上げた映画「あいときぼうのまち」を観てきました。

4代にわたり原発に翻弄される一族の姿を、福島における個々の事実をつなぎ合わせて物語(フィクション)にした本作品は、何しろ原発ですから、一体どこまで描けるのだろうかと半信半疑で観に行ったのでしたが、「まあまあでした」という印象でした。そう言うとさもつまらなかったかのように聞こえそうですが、私が言いたいのは、部分的には期待以上の表現もあったが、全体としては「出資者との調整」「上映館の確保」等々の事情に折り合いをつけるとなると、「まあ、こんなもんだろう。まあ、これ以上は難しいんだろう。」と感じたので、「まあまあでした」と。

4世代にわたる登場人物の脈絡が理解されるのに、私の頭では相応の時間を要した上、時代考証的な技法で画面の色調なり、風景なりが切り替えられることでいつの時代の話にジャンプしたのかを映像表現するわけですが、これが実は結構分かりにくい。フクイチの爆発事故以降何度も目にした「原子力明るい未来のエネルギー」なるアーチ型の看板に象徴される双葉大熊界隈の現在の町並みが、要するに大昔と比べてあんまり変わっていないということが、図らずもあぶり出された結果、いつの話をしているのか一瞬紛らわしく思える場面が多々あったということです。やはり、原発のような嫌悪施設を引き受けてみても、名実共に未来は思ったほど明るくはならなかった現実を暗示する演出なのか?とさえ、私には思われました。

それでも、あまり明確に語られたり、指摘される機会の少ない、どうやって原発のような割に合わない嫌悪施設が特定の地域に立地し得るのかという点に関しては、分かりやすく描かれていたりもします。つまり、ひとたび原発が誘致されると、それに賛成する人はどんどんカネ回りが良くなり、他方、反対する人はどんどん貧乏になってゆくという作戦が取られるという事実。これは、全国津々浦々の原発立地地域で例外なく見られた現象で、時の政府が仕掛けた壮大なペテン「むつ小川原開発」でズダボロに弱体化された六ヶ所村が、最終的には核燃料再処理施設をも飲み込むに至った経緯にまで、脈々と受け継がれています。

ここでカネ回りが良くなるとか、貧乏になるとか言いましたが、代々東京の青山あたりに生まれ育った良家の面々をして「カネ回りを良くする」のに要する札束と、冬が来るたびに出稼ぎに行かねば満足に食うことすら難しい人々の頬をひっぱたくのに要する札束とでは、分量において前者が後者を凌駕するのは自明であり、翻って出稼ぎに行かざるを得ないような生活を送る人々を更に経済的に困窮させるような戦略が、どれ程強烈に人の信念なり良心なりを打ち壊し得るかについてもまた自明だと言わざるを得ません。

私は結論として、原発は費用対効果が悪過ぎることと、核燃料の調達に特定の国々への依存を深める宿命を帯びている点などから、なるべく早く手を引くことが賢明であるという立場です。拓銀や長銀が潰れた頃から延々と、手の施しようの無い不良債権を血税で穴埋めしてきた不条理と同様かそれ以上のむちゃくちゃ振りを承知の上で、原発の廃炉に伴い電気事業者に発生する巨額の債務超過について「甘やかす」ような施策を許容してでも、これ以上国富をドブに捨て続けるような原発維持政策はやめた方がいいと考えています。そして、中国に負けじと火力発電を更新、増設し推進するのが最も穏健妥当な当座の解決策だとも思っています。太陽光や、現在以上の大規模な水力発電増設が「エコ」だという主張も、個人的には論理的に納得できないので首肯できません。

一方それとは別に、心情的な意味でも、原発は好きになれません。機械好きですから、プラントとしては軽水炉をやめて、トリウム溶融塩炉や高温ガス炉に活路を見いだすという意見には、内心興味が無くも無いのですが(笑)、それでもなお原発は良くない気がするのはなぜか、色々考えてみました。

それで見えてきたのは、原発という嫌悪施設を受け入れる方と、押し付ける方の双方について、その「根性」が気に食わないのだということ。

受け入れる方は、自分たちの頬を叩いてくる札束も、叩く側にとっては「はした金」に過ぎないからそうするのだという高度に経済合理性が貫かれた現実を前にしながら、嬉々としてか渋々かは別としても、結論的には屈辱を受け入れてしまうわけですが、その弱さや不甲斐なさをみる時、暗澹たる気持ちにならざるを得ないので、気に食わないのだと。貧しさと表裏を成す自尊感情の不足は、屈辱に甘んじることに対する人々の抵抗感を削いでゆく訳で、同じ東北人としては見るに忍びない光景ではないかと思うのです。

他方、押し付ける側はどうなのか。原発が必要不可欠で安全だと訳知り顔で言う輩に限って、「でも、ウチの近所は駄目です」とくる。もし仮に、都市住民の総意と覚悟の表れとして、日本は原発なしでは立ち行かないと結論するのであれば、当然、率先して相応のリスクを分担する意思の表明があって然るべき。上述したトリウム溶融塩炉や高温ガス炉なら、一基あたり30万、40万キロワット級の出力だから、それを安全な内陸(ガス炉は冷却材として水が不要)や内水面(荒川でも隅田川でもよい)に分散して立地させれば、侵略者サンどうぞ爆撃して下さい!とばかりに海沿いに無防備に立ち並ぶ(しかも機械を塩水で冷却する!)100万キロワット級の危険な軽水炉とは雲泥の差のリスクで、日本国民の愛してやまない原発を維持できるでしょう。なのに、それをしようとせずに現状の遠隔過疎地に原発置いて再稼動し、核のゴミ引き取りも一切お断り!というのでは、あまりに幼稚で吐き気がしてまいりますから、これまた気に食わないのだと。

ちなみに、率先垂範的な自己犠牲を通して正しさの実現を目指す精神こそが(その当否はともかく)日本人の美徳とされてきた過去の経緯からしても、日本人であるという属性自体ぐらいしか誇る物の無い「愛国者」諸氏が、なぜか決まって従来型の原発推進だというのも、訳の分からなさを上塗りする幼稚さの表れで、これまた気に食わないですね。日本人だけが素晴らしいわけでも無ければ、日本に素晴らしい点が無いわけでも全く無い。どこの国にも美点欠点があり、どこの国にも立派な人と普通の人とどうしようもない人が混在している。ただそれだけのことじゃんねぇ・・・としか私には思えないのですが。

みっともないヘイトスピーチのことを思い出し、脱線しました。

要するに、嫌悪施設の最右翼たる原発を受け入れるにせよ、押し付けるにせよ、そこで問われるのは「精神の成熟」じゃなかろうかと、最近思うのです。

正当な理由も無く他人から施しを受ければ、依存が生じてものが言えなくなる。「あなたの町の原発は安全ですが危険なので自分のそばには置けません」的な論理破綻を平然と子供の前でも唱えてしまうようでは「大人はみんな嘘つきだ」という悪しきロールモデルそのもので、次代を担う人が希望を持てない社会が続く。いずれも一言で言うなら、極めて「幼稚な」在り様だということ。成熟には程遠いのです。

私も他人のことなど言えません。しょっちゅう易きに流れますし、最近とみに快楽主義的な側面が目立つようにもなり、悪いことや自分のためにならないことから抜け出せない姿を見ても、私では正面切って批判できないなと思う気持ちが根付いてきた実感さえあります。

それだけに、あまりに無頓着に、おおっぴらに「幼稚であること」に甘んじ、「成熟」を拒むかのような態度を目にすると、「少しは遠慮がちにやれよな・・・」と顔をしかめたくなる、そんな同病嫌悪とか近親憎悪みたいな感覚を拭い去ることが難しく思われもするのです。

フクイチの爆発事故を現実に目の当たりにしたこの期に及んでもなお、従前同様の原発を推進したり容認したりする安易さは、やはり幼稚だし、成熟を拒む姿勢以外の何物でもないと、そんな風に考えるようになって来ました。

「あいときぼうのまち」の美点のひとつは、登場人物の弱さを前面に出すことで、我々が抱える幼稚さなり成熟を拒む姿勢なりが、改善の努力も危機感も無いままの軽水炉原発をここまでのさばらせて来た一因かも知れないことを、何とはなしに感じさせるところかもなぁ・・・なんて感想を持ちました。人間の弱さの描出が作品全体に浪花節的な情緒主義を振りまいてしまったかもしれない弊害を考慮しても、どちらかというと強い人ばかりが目立つバリバリの反原発運動よりは、不条理な同調圧力に弱い私のような者の共感を得易い面があるかもしれないと思ったわけです。

以上、さまざまな面において「まあまあでした」という同作品において、実は一番私の目を引いたのが夏樹陽子。御歳61歳だという往年のファッションモデルは、一頃「二時間ドラマの女王」と評されたのだとか。団塊ジュニアの私にとってはおよそ母親に近い年齢だといえますので、正直、彼女がかつてどれ程活躍していたのか、私自身のリアルでの記憶は無いに等しいのだけど、今現在の夏樹陽子にグッと惹きつけられました。いいですねぇ、こんな歳の取り方できたら! その昔、中学生ぐらいの頃、南野陽子もいいけど小川真由美はもっといいと言って、周囲から変質者扱いされてた頃のことを思い出しました。多少と言うか、モロにというか、私にはマザコンの傾向があるんですかね、この歳になっても(笑)。

 

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