カフェ解禁!?

 

 

 

 

 

最近、「カフェ」と名のつくものに片っ端から目が反応するようになりました。

別に「由緒ある」とか「高名な」といった類の形容詞が付くカフェではありません。スタバとか、タリーズとか、そういう普通のお店のことです。

たとえば電車でどこかへ出かけようとか、飛行機に乗ろうとか、あるいは出先で誰かと会う約束をしようというときに、その期日が接近するにつれ私は非常に緊張します。最近は年をとってさほどでもなくなりましたが、以前はそういう行事が目前に迫ると、しばしば腹痛を起こしたりしたものです。中学、高校のころ、いわゆる登校拒否気味の私は、毎朝自宅のトイレを延々占拠して家族の苦情を一身に集めていました(昔の家にはトイレは一つしかないのが普通でした)が、そのまま年齢だけ大人になってしまった結果、「出かける前には腹痛を起こすものだ」という奇怪な思い込みを必然であると信じるに至り、それ以上、何を疑うでもなく生活してきたわけです。

ふとしたきっかけから、一体自分は何が心配で出かける前になると下腹がキリキリしてくるのだろうかと考える機会が最近になって訪れ、そのこと自体を、これまで考えてみたこともなかった自分自身にまず驚いたのでした。

腹痛がひどかった頃は、出先でトイレが無かったらどうしようとか、まあその類のベタな懸念がすぐ想起されるべき所でしたが、いまは当てはまりません。何しろ、世界に名だたる「きれいな公衆トイレ」がそこらじゅうにあります。コンビにでも、何一つ買い物もしないでトイレだけ借りようなどと思わなければ、それはそれは愛想よくトイレのありかを教えてもらえます。その感覚で出掛けに用を済まさず、不用意に外出したりすると、海外では筆舌に尽くし難い後悔に見舞われることもしばしばです。

そんなことを考えるうちに浮かんできた一つの理由が、「約束の時間まで何をしていたらいいのか分からない」からではないかということ。

多少説明します。岩沼駅で5分10分電車を待つのなら、ホームで立っているなり、ガラス囲いの待合所に逃げ込むなりすればいいし、それも嫌だと言うなら、自宅を出る時間を調節してもいい。ところが、それが空港だったり、仙台駅だったり、さらには遠く離れた東京のどこかの駅だったりすると、だんだん問題になってきます。ファミレスか昔ながらの喫茶店でもあれば、そこに隠れていればいいのですが、最近はその手の施設がめっきり減ってきて、代わりに大増殖したのがカフェ。

ならカフェに入ればいいと言われるのでしょうが、それがまさに問題の核心だということがつい最近判明したのです。

私の場合、カフェには入れない。入るのはまずい。理由は「似つかわしくないから」。ただそれだけ。バカげた話であるのは認めますが、私にとっては長年その通りであったという、事実です。

オープンなスペースに所狭しと並べられたテーブルに、何をするでもなく座っているだけの人、パソコンやスマホを覗き込む人、読書する人などが陣取り、思い思いに時間を過ごす様は、初めてそれを目にした私には大変おしゃれで目映いもののように思われ、おしゃれとは無縁の私は出入り禁止だなと結論した次第。

それ以来、カフェが日々店舗数を増やし、それこそどこもかしこもカフェだらけという時代が到来してもなお、カフェに対する羨望にも似た恐れだけは私の中で連綿と生き続け、とうとう公共の場で逃げ込む場所がないという事態が示現したのでした。

「それはあんた、おかしいよ、ちょっと。」「変だよ、変!」

面と向かってそう言われてやっと、そうかぁ、おかしいのかそれは・・・と少し再考の余地があるのかもという気になってきました。

で、腹痛の理由、出かける前の緊張の理由ですが、いついかなる状況でも「待ち時間が発生しないようにしなければならない!」というプレッシャーが、どうやらその本態らしいということが見えてまいりました。

カフェだらけの昨今、街でカフェに入れない。ベンチでもあればまだしも、それもなければウロウロする他なく、職質でもされたら格好悪いなんてもんじゃない。かくなる上は、可能な限り入念に、綿密に行程を吟味し、乗換えや待ち合わせの時間を極小化するために準備を徹底しなければ・・・となるから、当然ものすごく大変なのだということらしいのです。強風も人身事故も機材到着遅れも、私の精緻な計画をこともなげにぶち壊す。何度か考えてみたのですが、この分析が一番しっくり来ます。

遠方の誰かを訪問しようとか、出先で人と待ち合わせようなんて場合にはさらに条件が厳しくなります。なにしろ自宅を出てからどんな乗り物に乗って出向くにせよ、最終目的地に到着次第、目的の人物にご登場願わないと、直ちに私の「待ち時間」が発生します。しかし、売れっ子の芸能人でも政府首脳でもない私に合わせて、こちらの旅程の最終時点で首尾よく現れてくれる友人などいるはずも無く、無理を言って嫌がられるか、会うこと自体を見送るかという結末に一直線。

だから、出かける前になると非常に緊張する。なんとしたことか・・・。

解決策は一つしかありません。カフェに入る練習をしよう!

実際、練習をしました(笑)。まだぎこちなくて、少しドキドキしますが、だいぶ慣れてきました。慣れてきて、少しずつカフェの客人たちの様子を眺めてみると、意外や意外、あんまりおしゃれじゃない人や、それ以前と思われる怪しい雰囲気の方もいるではありませんか。頭上のダウンライトのおかげで目映く反射する私の頭ぐらい、そこに居てもどうってこと無いような気さえして参ります。

さらに興味深いのは、結構な数の常連と思われるお客さんというのが居て、手の空いた店員と他愛のない雑談を交わしていたりする光景があちこちで見られること。特にスタバの若い店員は、業務の手を休めるわけでもなく、それでいて如才なく、けれん無く、幾人もの常連と思しきお客さんに声をかけている姿をどこの店舗でも見かけます。何か良く練られたマニュアルのようなものでもあるのでしょうか? 若者のコミュニケーション能力について云々したがる年寄りが多い昨今、本当に深刻な問題を抱えているのはむしろ大人の方ではないのかという疑念が、非常に強く思い起こされる光景です。

そんな風景を見ていたら、昔、フルタイムでコンビニに勤めていた頃のことを思い出しました。コンビニにも常連さんというのがいて、中には明らかに店員との会話を主たる目的に、決まって同じ時間帯に来店されるお客さんというのが何人もいました。多くは深夜の時間帯でしたが、何しろお客さんの方も楽しみにしてやってくるわけですし、迎える店員の業務が比較的落ち着いている時間帯を狙って来店されるわけですから、店員としても悪い気はしないもので、一回ごとの会話の内容は極めて限られたものであるにもかかわらず、何ヶ月も積み重ねてゆくと、「ところで、何で俺はこのお客さんのことをこんなに詳しく知ってるんだっけ?」と奇妙な感慨を抱くまでになることも少なくありませんでした。コンビニの知られざるソーシャルな機能に通底するものを、たとえばスタバのようなカフェもまた担っているのかもしれないと思いました。

それより何より、自分がコンビニで生計を立てていたことや、その理由は動物病院での勤務があまりに辛くて逃げ出したためであることを、久しく忘れていたというおめでたさの方に我ながらハッとしました。よ~く考えてみたら、他にもよみがえる挫折、変節、紆余曲折、そして幾度にも渡る現実逃避の遍歴。ここしばらくの間、私はまさに自分の歩んできた歴史に関して、悪しき修正主義者であった事実が浮き彫りとなってしまったのでした。

変だ、変わっている、おかしいよ、あんたは・・・そういわれることに慣れ、麻痺してしまっている自分ですが、傍目にもおかしい「思い込み」の中には、私自身を生き難くしているもの(カフェ出入り禁止とか)があるらしいと知って、たまには他人の指摘にも耳を貸すものだと痛感しました。お前が思っているほど、お前が街でどの面下げて、どこで何をしているかなんて、誰も見ちゃいないよとも指摘されました。いずれも大いに参考にさせていただき、お蔭様をもちまして、街カフェの入場実績も徐々に積み上がりつつあります。

「待ち時間」や「何もする予定がない時間」に怯えるのではなく、楽しめばよい。そんな楽観さえ、違和感がなくなりつつあるのは、私にとってちょっとした事件です。

学会で訪れた週末の東京。数年がかりの改築工事を終えて多少見栄えの良くなった武蔵境駅前のカフェでとる朝食。岩沼駅前より著しく多い人通りを眺めながら、その他大勢の中に埋没して、誰にも干渉されない匿名性の気楽さを存分に楽しむことを覚えつつある私。

もしいつか、どこか意外な場所で、馬鹿面下げてカフェでボケーッとする私を見つけても、どうか「何してるの?」とか「何でここにいるの?」とか問わないでください。なにしろ、答えははじめから決まっています。

「何もしたくないから、そこにいます。何もすることがなかったから、そこにいたのです。」と。

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