どうしよっか? 参院選

まず、参議院比例区の投票方式を確認。たいていの候補者の公式ページに説明があるので、

気になる候補(それが居なくて困っている人向けにこれを書いているのだが・・・)のそれを参照のこと。

さて、そこからである。

 

自民・公明、民主、維新を支持する人たちは、特に困らない。しかも、どこの誰の予想も

異口同音に「自民圧勝」なので、勝ち馬に乗れることも確実。

 

問題は、上記に当てはまらない有権者たち。昨年12月の衆院選以来、状況は基本的に変わっておらず、

「どこにも投票する先がないじゃん!」

という人がたくさん居る。だから、棄権も多いだろう。棄権しか、意思の表示のしようが無いという議論も、

心情的には良く分かる。

 

しかし、棄権すれば、棄権した本人がなんと言おうが思おうが、自民圧勝の追認という効果しか出てこない。

別の論点にはなろうが、女性は特に棄権しないほうがいいとも思う。現在の政治状況云々とは全く関係なく、

女性の参政権は男性のそれと比べると、自明ではないのが歴史的事実。そんなのおかしいという声に、

誰一人反論などしてこないにもかかわらず、古今東西、男性に都合が良いように世の中は仕組み上げられている。

先人がはらった努力や犠牲を思うと、女性が棄権するのはことさらに避けて欲しい気がする。

 

話を元に戻す。それならどうやって、どれもこれも選びたくない(信じられない)対象ばかりに見える参院選

で、それでもどうにかして投票先を決めたらよいのだろうか?

 

あちこちに同じ悩みを抱えている人がごまんと居るのを受けて、識者と呼ばれる人たちもまた、それぞれの

立場から、「指針」みたいなものを提案しようと試みている。

 

保守リベラルの論客である北大の中島岳志氏は、新聞紙上で「二つの座標軸」での切り分けを提案している。

まず一つ目の座標軸は「人間の抱えるリスクを主としてだれが負担するのか?」で、ここで言うリスクとは、

病気や怪我、失業、災害などで、人により程度の差は当然あるが、何人も全てを完全に回避することは

出来ないと思われるようなリスクをさす。これらのリスクを「自己責任で個人が背負う、小さな政府を志向する」

のか、「国や社会全体で広く薄く担う、大きな政府を志向する」のかで、選択するというもの。たとえば、

目下話題のアベノミクスは前者の典型ということになる。

 

二つ目の座標軸は「リベラルか、パターナルか?」。リベラルは、個人の生き方に権力が介入することを嫌う。

パターナルは、権力が国民に一定の社会規範を示すべきだという発想。改憲、夫婦別姓、靖国参拝に対する

立場を切り口にすると、自民や維新はパターナルの方向にある。

 

中島氏は、(広義の)大きな政府、リベラルの旗を掲げる勢力が見えてこないから、難しいのだと結論している。

私に言わせれば、その類の公約を掲げている政党は無いわけじゃないのだが、共産や社民には入れたくないし

と思っている人が「困っている」のだと補足したくなる。

 

同じ新聞紙上で、関西学院大の阿部潔氏(社会学)は、「社会は安全でない」ので、政治に「見守ってもらうことで

自由に楽しめる」という「見守る政治」期待論が、日本の監視社会化の根底をなすと警告している。殺人事件の

9割は加害者と被害者に面識があったという公共空間における事実にもかかわらず、人々の「見知らぬ他者」への

過剰な警戒が当然視される風潮の結果、政治は「安全・安心」を連呼する。

それを徹底したのがテーマパークであり、監視と管理の下、全てが快適に期待通りに進むが、

予期せぬ出来事や他者との出会いもないので、監視社会化は社会のテーマパーク化に他ならないと。

 

その上で、国民が国家を縛る仕組みの現行憲法に対し、自民の改憲草案は「自由及び権利には責任及び義務が

伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と国民を縛る規定を明記しており、まさにテーマパーク

化のための憲法改正。今まで国民に保障されてきた自由が取り返しのつかないことになる可能性を懸念している。

 

さらに、ツイッターやフェイスブックなどのSNSで友人の行動を逐一チェックし、それでむしろ安心しているふしもある

仲間同士の「見守り合い」自体や、そもそもそうしたサービスを利用する時点で国家権力の監視網に自ら挺身している

ようなもので、いずれもやはりテーマパーク化の一側面だろうと。エドワード・スノーデンの暴露告発に強い関心を

寄せる私には、非常に納得しやすい分析である。

 

結論として阿部氏は、監視による秩序は「人間を信頼しないということ」で、いかにして人々の間に信頼を生み出すか

が政治の課題。それは経済がよくなったからといって達成できるものではないと断じている。

 

継続性のある経済力が国の維持に不可欠なのは当たり前のこと。にもかかわらず、すでに行き詰まり、

おそらくはゲームのルールが変わった事にも思い及ばず、単に懐古趣味に走ったところで傷を深めるだけだという

現状認識すらない現下の政策。半導体チップ等で経験した惨状と違って、よもや即座に価格競争に巻き

込まれることもなかろうという程度の暢気な見通し(現実は「巻き込まれる」こと必至。韓国あたりは事故時

の再保険契約もどきのサービスまでくっつけて売り込んでいる無茶苦茶ぶり)と、既に賞味期限切れの

斜陽産業を延命させるのに好都合というだけの理由で、この時代の節目に臨んでもなお、原発の輸出くらい

しか思いつくことが出来ない政治家や自称経済人の「商売人としての」センスの無さを思えば、選挙公約の

かなりの部分は、党派を問わず、言うだけタダで実現の見込みなし。にもかかわらず、自分たちの手足を

縛る憲法は邪魔なので捨てちゃいますねというのでは、そういう人には「任せない」ように投票行動しないと、

後でバカを見るのは国民の側だけだと察しも付こう。ましてや、そんな連中に、国民相互の信頼を創出するだの、

醸成するだのといった芸当は望むべくも無い。

 

その昔、「手鏡事件」で有名になったエコノミストの植草一秀氏は、「原発・憲法・TPP・消費税・沖縄」の5つに着目し、

各自の意見を反映させるのに矛盾の無い政党をリストアップすれば良いと提案している。植草氏自らの見解を例に

挙げれば、「原発再稼動反対・憲法96条改訂反対・TPP参加反対・消費税大増税反対・沖縄基地建設反対」だから、

「生活、社民、みどり、共産」が矛盾せず、この範囲から投票するのだという。

 

さらに植草氏は、各党個別の公約を仔細に見てゆくと、投票行動に関し、大きな原則を立てることが可能だと指摘する。

すなわち、

「棄権しない」「自公みんな維新に投票しない」「民主に投票しない」

の三大原則が導き出されるということに相成ったと。

 

本稿の冒頭にある「自公、民主、維新を支持する人は困らない」から導き出される「困ってしまう人」にとっても、

植草三原則はそのまま参照可能である。「みんな」を外してあるのは、同党が基本的に小泉構造改革の流れを

引き継ぐ「小さな政府」論者の集まりであることと、植草氏が渡辺代表以下の同党幹部を「最終的には自民を

補完する方向へ寝返るだろう」と、要は信用していないことによる。この辺は多少異論も出ようが、氏の立てた

ルールに従ってスクリーニングすれば、こうなりますよという結論。「困ってしまう人」該当者は、この選挙の

争点を自分自身できちんと見極めることが不可欠ですよというメッセージだと理解したい。この国のマスゴミが、

そうした役に立つ論点整理を率先して行う気も、問題提起する能力もなくなって久しい以上、人任せには

出来ないのが現状である。

 

他にも、実に様々な「篩い分け法」が提案されているのだが、書ききれるわけも無い。ただ困ったぁと途方に

暮れていても仕方ありませんよ、たとえば上述したような人たちのメソッドに手助けしてもらいながら、何とか

自分自身で相応の理由付けが出来る投票行動に結び付けて、棄権したい誘惑を振り払いつつ、投票所まで

たどり着けるだけの気力を養いましょう!と、エールを送ってみたつもり。ちょっとでも、役に立つと良いのだが。

 

それにしても、この無力感というか、選挙に行くのもバカらしく思えてくる嫌悪感は、色々考えてみたが、私は

やはり民主党の責任がとてつもなく大きいと思う。マニフェストという言葉を江湖に知らしめておきながら、

こともあろうに自らが実行したことといえば、マニフェストに書いてない(選挙戦では「絶対にやらない」と喧伝した)

消費増税なのだから、まさに大嘘つき以外の何者でもない。公約を掲げて選挙で選ばれても、実際は公約と

正反対のことをやるのが政治家であり政党なのだと、面と向かって宣告されたかつての支持者達は、

自民党を下野させる(反省させる)為にとはいえ、民主党に投票してしまった自分の不明を、心の底から恥じる

気持ちで日々を過ごさざるを得ない塗炭を強いられたようなもの。

「2030年代までに原発ゼロを実現する」にしても、アメリカにどやされたからといって閣議決定できなかった

民主党が、今回もまた同じ主張を公言する姿を見るにつけ、恥を知れと心の中で呪っている有権者は少なくない。

 

三年も政権の座にありながら「出来なかったこと」を今日の選挙公約に掲げてるというのに、一言の説明も反省の

弁も無いのはどうかしているという自民党からの批判は、全くもってその通りであろう。その意味では、96条改訂や

原発、TPPに関する立場の違いを超えて、「民主党には投票しない」という大原則は、相当幅広く受け容れられる

共通認識にならざるを得ないと思う。

 

許すまじ、民主党。失せろ、民主党。私もそれに同意する一人である。