私はいわゆるマスコミと呼ばれる人たちやその媒体を、基本的に信用していません。一般には入手の難しいような情報に到達する方途を持ち、多岐に渡り集められた早耳やウラ情報をも集約し、あるいは整理分類して、一定のまとまりや方向性を持った情報群(パッケージ)として世の中に再び送り出す作業者は長らく特権的であり、現時点でもまだそれを当然のものとして許容する少なからぬ一般人の支持を裏づけに、世間的に恵まれた地位を保っているかのように見えます。にもかかわらず、実際に連中がやっていることと言えば、為政者の広告塔よろしく太鼓持ちに興ずるか、無知と不勉強をものともせぬ厚顔で出鱈目な理屈を振りかざし、反撃の能力を持たない弱者を完膚なきまでにイジメ倒すかのどちらか。新聞購読料に軽減税率を適用させるのと引き換えに、政府の無駄遣いの原資を膨らますだけの増税を正当かつ不可避なものと大見得を切ってみたり、毎日新聞の須田桃子記者をして小保方晴子さんの大バッシングキャンペーンを展開した揚げ句、その壮大な自家製「フィクション」の顛末を書き起こした本で大宅壮一ノンフィクション賞まで貰ってみたり。
全国紙にはそれぞれカラーがあるのは周知の通り。時の権力や経済界と一体化して、長いものに巻かれたい読者向けに精神の自慰を安定供給する読売。敗戦までは戦争推進を説いて部数を伸ばし、占領軍が来るやあれは軍部の暴走だったと被害者面したい国民世論を喚起あるいはそれと一体化して、卑屈な「似非平和主義」を唱えて自虐史観の急先鋒となる事大主義新聞の朝日。前二者に比べて多少良心的なイメージを演出するも、実際は記者の能力があまりに低く(とりあえず私が専門性を主張できる獣医学の分野に限定しても、関連記事のお粗末さ、出鱈目ぶりは目を覆うばかり!)、まずてにをはからしてなってない記事を校正推敲させる能力さえ持たない管理職しか居ないと仮定しなければ説明がつかない質的凋落をあらわにする毎日新聞。産経にいたってはまあ、日ごろ目の敵にしてる隣国の女性国家元首の下半身ネタを引用記事(つまり始めから責任回避)で日本に打電した支局長が、元々言論統制を悪いとは思っていない彼の地の検察に起訴されたりするオマヌケぶりで茶目っ気もありますから、前三者と並べて論ずること自体に無理がありそうなのでパス。
要するに、テレビがだいぶ前にそうなってしまったのと同様に、新聞もただ一つとしてまともに取りあうべき品位を保つものがなくなってしまったので、これをもちまして、マスコミは嫌いですからマスゴミと呼んでます!の範疇と位置づけております。
ところがです。ひょんなことから我が郷土の河北新報なる地方紙を、知り合いに頼まれて購読してみてびっくり仰天! なかなかどうして素晴らしいのです。全国紙的なネタについては共同通信の配信記事ですから、まあ、さしたる感想も抱きようがないものが大半ですが、とりあえず昨日何が起こったのか?が分かれば、下手な偏向解説はかえって邪魔だという向きにはこれも悪くありませんので、美点といえば美点。しかし、素晴らしいのは河北独自の記事とその解説、そして大変論旨明確な社説。何せ地方紙ですから、土地に結びついた人畜無害な話題(いわゆる暇ネタ)が中心なのですが、これが結構よく書けていて、取材した記者の感想や思いが結構鮮明に残っている。人間の気配、息遣いが(全てではないけれど、それなりに)残っている感じ。
それがどうした?なんておっしゃる方のために注釈を加えておきましょう。
私は長く毎日新聞を購読してきたのですが、記者が何を考えたのか、何を感じたのかなんて、きれいさっぱり漉し取ることこそが我が社の編集方針ですといわんばかりの記事ばかり。つまり、取材対象を選択する時点で結論や落とし所は決まっていて、記者はそれにふさわしい「論拠」となりそうな情報の断片を石に齧り付いてでもかき集めてくるという手法。やらせ問題などという滑稽な言葉が世上真顔で語られてますが、テレビは昔からそう。生まれついてのやらせメディア。始めに結論ありきで、それに沿った発言がなされるまで記者は執拗に誘導尋問を続けるし、それでも足りなければ想定した結論に話を落とし込む「映像編集」の出番となります。全国紙も、とうとうここ数年でテレビとほぼ同等の水準まで身を堕としたということが言いたかったのです。
河北の社説もまた素晴らしい。主張の内容自体こそ、当然のことながら、私のそれと真逆であったりすることも多く、私と河北が「気の合うもの同士」だから褒めているのではないことを予め申し置きした上で、何を言いたいのか、結論はどうなのか(提起した問題に対して、賛意を評したのかそうでもないのか)が、端的に表現されているのです。これは毎日新聞と大違い。毎日は利権を共有する仲間が多すぎるのと、利権自体のスケールが大きくて、既に襲われている購読者減少の危機に抵抗するためには、直ちにそれらのうまい汁を手放すわけには絶対行かないんだ!という強い意志が感じられ、論説や社説の類はどんなに善意に読み返しても誰に何を言っているのかも、自らの立ち位置もさっぱり分からないものばかり。読み進めるほどに時間を返せ、購読料を返せ!の思いを深めて疲労するだけですから、河北の爪の垢を煎じて飲ませたくらいでは、どうにもならなそうな次元の低さでしょう。
その昔、私とはことごとく気の合わない実父が河北を購読してた頃の記憶では、読むところのない、素人のおっさんと大して変わらないような見識でも書けそうな解説や論説しか載ってない新聞というイメージがあったのですが、これは現状に全くそぐわない思い込みであったことに驚いた次第。それが、当時の三大全国紙が河北を凌駕する量と質を有していたところからものの見事に落ちぶれたということなのか、兎と亀よろしく河北が地道に自らの水準を切り上げてきたからなのか、とりあえず今の私にはまだよく分かりません。ただ、日々この土地に身を置いてさして輝かしくも感動的でもない日常をつつがなく送ることに腐心する一購読者として、政府や霞ヶ関の垂れ流す御用情報をコピペするだけのマスゴミなんぞに払うカネはないが、河北の薄っぺらい夕刊セットにだったらまあ払ってもいいかなと、そう感じましたよというお話でした。
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