あおぞら動物医院

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8月 14th, 2015

九電川内原発再稼動

中世界, by aozora.

手続き上予定されていた通りに、九州電力川内原発が再稼動された。従前より明言している通り、私は原子力発電には反対であるので、非常に残念に思っている。

しかし他方、これはもはや明確な民意によるものだとも、特に最近認識している。この私には依然として理解し難い事実ではあるが、非常に多くの国民が原発を続けることに一定の合理性があると考えており、しかも、あれほどの嫌悪施設を些少の迷惑料(電源三法交付金など)で押し付けられる立地自治体の人間というのが、さして舐められているとかバカにされているとか、とにかく尊厳やプライドを傷つけられたりしたとは、どうやら思っていないらしいことも分かってきた。この予想だにせぬ事実を、たとえ共感を伴わぬ形式的なものであるにせよ、一応私が理解することが出来るようになるのに、実に四年の歳月を要したわけである。

自分の目と鼻の先で福島第一の事件があったことに深く衝撃を受け、原発に対する生理的嫌悪感を克服する覚悟まで抱いて、まず原発の何たるかを理解するための情報収集に明け暮れもした。その結果分かったことは、原発という工業プラントには、確かに原子核反応にまつわる物理学的な(つまり、普段の生活上は馴染みの薄い)知識を要する点はあるにせよ、それが正確かつ完全に理解できないからと言って、原発プラントという工業技術が、我々の常識を超えた知識を概要把握の必須条件とするほど難解なものでは「まったくない」ということだった。

にもかかわらず、推進する政府や経産省はもちろん、NHKや全国紙、はたまた一部の脱原発派の連中に至るまで、ちょっと話が小難しくなると(つまり、調べものゼロでは即理解できないというか、理解するのに多少の手間がかかりそうな雲行きを察知した時点で)異口同音に「専門家の意見を聞きながら」とか「専門家の判断を待って」とか言い出すのだから、これはもう本当につける薬がない。

皆さんの言うその筋の「専門家」に任せてきた結果が、人類史上初の原子炉格納容器ベント(閉じ込めるべき放射能を大気中に放出するしかなくなったということ)であり、しかもそれがじつは原理上始めから不可能な机上の空論だったもんだから、十分に減圧できないまま建屋が爆発してしまったという失態なのだ。そして、いまこの期に及んでも原発命で時間の巻き戻しに血道をあげている推進側に担ぎ上げられ、気でも狂ったかのように再稼動の旗を振りかざしているのも、まさに上記の「専門家」たちである。あれほどしくじった時点でまず技術者として二流だった証だというのに、そのことに対する反省も無いうえ、言ってることはといえば「昔と同じようにやらせろ。マトモに安全対策なんかやってたらカネがいくらあっても足りないのはみんな分かってやってたことじゃないか!」と居直る始末。ここまで堕ちると、社会に多大なる迷惑をかけたことを心から詫びる器量もない、人間的にも二流の部類。そんな「専門家」たちに、自称「善意の一般市民」はこの上どんな素晴らしい教えを乞おうというのか。

この手の専門家とやらに国家国民の命運を丸投げして、要するに自分の頭で考えるのが面倒くさいからと思考停止するような一般市民は、文脈上、論理的に二流「未満」ということにならざるを得ない。

だとすれば、「安全だ」と口では言ってるが誰一人として安全だと思っていない嫌悪施設たる原発を、補助金・交付金という名の不労所得に目がくらんで(一般会計の歳入比率でみると、北電泊原発の泊村は80%、関電原発銀座の若狭湾沿岸や佐賀の玄海町あたりは軒並み50%前後を電源三法交付金等の原発マネーに依存。これはもともと存在自体がフィクションというほか無い「始めから自治などできない自治体」。ちなみに我が郷土の女川町は7%。これぐらいなら廃炉支援交付金への置換は可能なんじゃないか!?)嬉々として受け入れるような人たちもまた、全体からしたらごくごく平均的な自尊心の持ち主だということになる。残念だが、この程度が今の日本の現実だという意味である。

かくなる上は、この奇怪な民意を受けて、再稼動はどんどん進まざるを得ない。立ち止まるとしたら、それこそ次なる事故によってしかないという、救いようの無い話でもある。諦めて声を上げないとますます悪い方向になるといわれるのも必至なので、私個人は機会あるごとに「原発はバカらしいから、常識に従って当面は埋蔵無限の石炭火力中心に時間を稼ぎ、市況悪化でどんどん安くなるLNG火力も諦めずに改良を重ね、将来それらに伍する技術を得て効率化が実現した暁には太陽光や風力もある程度使ってもいいでしょ?」と言って回ることにはしている。

ついては、この原発再稼動という不本意な節目に際し、少数派の私の見解をいくつか列挙しておくことにする。

○原発は震度6以上の地震に耐えられない。新基準でもその点は何ら解決していないので、日本には全く不向きである。

○原発は電気制御を伴う工業機器だから、海水に濡れる事自体が致命的。福島第一の建屋でさえ津波の破壊力ではびくともしなかった。問題は浸水。東海第二も福島第二も女川も浸水がこたえた。水濡れしたらスマホも電子レンジも壊れるのと同じだから、そびえ立つ防潮堤は茶番。

○現行原発は圧力鍋と一緒だから、いざ内圧が生じてしまうと「弁を開けて減圧する」ということ自体が困難になる原理的欠陥を抱えている。内側から押し付けられた弁構造は、その内圧以上の力で押し開けるしかない。あまり内圧が上がる前に現場の判断で弁構造を壊してベント?した福島第一の5号機と6号機はあの程度で済み、バカ正直に蒸気や電気与圧したガスで開放しようとしてるうちに弁が動かなくなって結局爆発した1~4号機が、あまりに重い代償を伴ってこの原理的欠陥を実証した。新基準がどうの、活断層がどうのと言う前に、沸騰水型も加圧水型も欠陥商品なんだから安全たり得ない。

○これからも原発を廻し続けるというなら、その安全性向上は当然最新鋭プラントへの「建て替え」以外に無い。新基準でベント設備を猶予された(笑)加圧水型から先に再稼動するが、日本の加圧水型は世界で最も旧式。沸騰水型は多少新型も混在するが原理的に過去のものとして見限られて久しい方式。本気で安全性を云々するなら、建て替え更新しかありえない。しかし、それじゃ儲からないし、話が一気に面倒くさくなるから誰も言い出さない。電力会社がズルして、手抜きして、適当に老朽原発を廻した場合にだけ儲かる制度を採用しているのだから、当たり前の結果である。

○国民というか、狭い国土を共有する民族の決意としてそれでも原発をやるというなら、津波の来ない淡水内水面立地で最新鋭の原発を総工費の3割以上を基礎工事に投じた上で建設し、大都市近郊で運転するのが当然の筋である。だいたい送電線が長いということは非効率かつテロの温床。幸い東電管内は川がいっぱいある(荒川でも江戸川でもよい)し、霞ヶ浦も好都合。関電は当然琵琶湖で決まり。これだと、嘘偽り無く、確率統計的にかなり高い水準の安全性を手に出来る。でもそれは嫌だからどっか田舎でという根性が、腐りきっているわけである。

やはり、こうして適当にいくつか思い付きを並べて見ても、一体この話のどこを見たら「原発はやむをえない」とか「メリットもある」とかいう結論に飛躍できるのか、私にはどうにも理解が出来ない。でも、これが民意。民主主義ってのは、こんなものなんだろうか・・・。

 

 

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Responses to “九電川内原発再稼動”

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